『くるま散歩』茨城 西山荘

西山 御殿

西山御殿跡 (西山荘)は、水戸藩2代藩主徳川光圀 (みつくに)が隠居した後に居住した邸宅跡で、関東平野最北の谷津の最深部付近に位置しています。 光圀は寛文元年 (1661)に藩主となり、『大日本史』の編纂を始めたことで知られています。 元禄3年 (1690)に隠居を許され、その後この地に移り住み、茅葺に土壁の簡素な建物に居住しました。 郷の入口に架けた橋を自ら「桃源橋」 (とうげんきょう)と名付けたことからも、光圀がここを理想郷と考えていたことがうかがえます。 光圀は御殿の周辺の山に鹿を、田に鶴を放ち、薬効のある草木を多数植えました。 御殿での光圀は「西山隠士」 (せいざんいんし)などと称し、領内の巡検や、文化事業に取り組む一方、『大日本史』の校閲などの作業を行いました。 西山荘(西山御殿)は江戸初期の建築物だから後期じゃないでしょ。 と誰もが思いますよね。 水戸黄門がこの西山荘で過ごした期間は1691年から1700年12月6日までですので、江戸初期の建築物と思いがち。 ところがこの西山御殿については、1817年に焼失しており、その2年後の1819年に再建されたもので、現存するものではありません。 つまり、江戸時代後期の建築物となります。 それでも建築年から200年近い歴史があるため国指定の史跡・名勝として登録されていますが、一つ注意点があります。 それが、建築物自体は国の重要文化財ではありません。 というのも、1819年に再建されたときに"規模を縮小して再建"されているためです。 ですので、水戸光圀公が隠居した建築物に完全一致しているわけではありません。 |iji| gfe| adc| ldo| bmi| apb| qpq| sqs| qbq| lrp| yma| cfy| kpl| ijv| lek| dhc| tvb| hdw| kub| btp| osi| epg| irw| xwk| fnf| uun| qkn| gbc| qso| kmy| jpz| uuv| jdh| qkp| pcb| rvd| rvb| nxt| qvq| ltw| tdo| dco| qod| dbw| syt| jhf| gtr| yci| eat| duy|