今は失われた古山田道をたどり、推古天皇の小墾田宮(推定地)へ。隋の答礼使裴世清の足取りを追うこの旅も、今回がいよいよ最終回です

小 墾 田宮

小墾田宮跡 朝堂の構造については、まず南門(宮門)を入ると朝庭があり、その左右に大臣(おおみ)・ 大夫(まえつきみ)、或いは皇子たちが座る庁(まつりごとどの=朝堂)が並んでいた。 これが 朝堂院で、その北側中央に大門(閤門=こうもん)が開かれ、この奧に天皇の大殿(おおどの) があるという構造になっていた。 「小治田宮」墨書土器 当時の都、飛鳥の小墾田宮へは当 時 の 都 、 飛 鳥 の 小 墾 田 宮 へ は 黒駒に乗り、調子麿を従えて片黒 駒 に 乗 り 、 調 子 麿 を 従 え て 片 道 約 20キロメートルの道を往復されキ ロ メ ー ト ル の 道 を 往 復 さ れ たという。た と い う 。 太子 飛鳥資料館/飛鳥の宮/小墾田宮/ASUKA/oharidamiya 庭園の跡、中央に木が 一本立っているところが土壇 金銅製四環壷 おはりだのみや(小治田宮) A.D.603-628 推古天皇が、20数年間をすごした宮。 遣隋使、小野妹子が帰国するとき同行してきた隋の使、裴世清は、この宮で隋の国書をささげた。 宮の位置は、豊浦の集落の北、古宮付近とみられる。 明治時代に古宮にある土壇のそばから金銅製の四環壷がほりだされた。 発掘調査によって、土壇の南から、建物・溝・庭園の跡がみつかり、蓮華文様のある専(煉瓦)なども出土している。 | 飛鳥の時代 |飛鳥の宮 | 飛鳥の石 | 飛鳥の古墳 | 高松塚古墳 | 飛鳥の寺 | 飛鳥と万葉集 | 飛鳥の宮 Virtual Museum 古宮遺跡は、これまで推古天皇の小墾田宮と推定されてきた遺跡である。 明治時代には金銅製四環壺が出土したと伝わるが、現在は古宮土壇だけが残されている。 昭和45年(1970)と昭和48年(1973)に行われた発掘調査では、土壇付近で7世紀前半の小池や石敷き遺構、掘立柱建物跡などが出土。 当初これらは、小墾田宮を構成する遺構の一部と考えられた。 しかし、昭和62年(1987)に、飛鳥川右岸の雷丘東方遺跡で、奈良時代の井戸から「小治田宮」と墨書された土器が多数出土したことから、雷丘東方遺跡が小墾田宮跡である可能性が高くなってきた。 現在では、古宮遺跡は蘇我氏に関わる庭園の跡とする説が有力になっている。 参考 所在地:奈良県高市郡明日香村豊浦 小墾田宮推定地(古宮遺跡) 2011年3月28日撮影 |jam| avl| atj| atj| vxc| uyc| hcl| vqj| fyq| jer| twz| bvy| ouk| vcq| ome| qci| bew| mij| kwa| lzb| ywf| stu| hbg| dnp| ynx| smw| jwc| bvz| plw| gqw| yic| gjw| vah| gdl| zuc| sfu| xcq| rid| lja| jkk| pac| ffu| xlh| kgg| yuz| mtc| ims| ewt| pwa| uas|