続日本100名城 芥川山城 大阪府 Akutagawasan Castle

芥川 山城

最近の発掘調査では、主郭跡などから当時の建物跡や記録と合致する火災の痕跡が発見され、惟政や右近が入城した「芥川城」は、この山城であることが確実になりました。 主郭で発堀された建物の礎石 火災跡 関連ページ 続日本100名城 芥川山城跡 このページに関するお問い合わせ先 文化財課埋蔵文化財調査センター 大阪府高槻市南平台5丁目21-1 Tel:072-694-7562 Fax:072-692-4313 お問い合わせフォーム <外部リンク> Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。 (無料) 芥川山城は摂津国(大阪府北中部と兵庫県南東部)で最大規模を誇った山城であり、大阪平野と北摂山地が接する要衝に当たります。 永正13年(1516)までに、摂津国の守護を務めた細川高国が築きました。 この築城にあたっては、300~500人が昼夜を問わず動員されたと伝わっています。 芥川山城の山頂に設置された三好長慶のパネル この頃、畿内では足利将軍家が分裂し、有力守護の細川家も分裂して争っていました。 そして、高国との戦いを制した細川晴元が、高国に代わって芥川山城の城主となります。 さらに晴元の家臣であった三好長慶が晴元を追放して、天文22年(1553)から約7年間、芥川山城を居城とします。 戦国時代の防御施設と先駆的な石垣 芥川山城は大阪府高槻市の三好山にある山城です。 当時の呼称は「芥川城」でしたが、高槻市周辺にあったお城も「芥川城」と呼ばれていたため、三好山にあった城は「芥川山城」と呼ばれるようになりました。 芥川山城は飯盛山城と共に、大阪府下では最も規模が大きな城跡になります。 芥川山城は遺構の残存状態もよく、戦国時代の典型的な山城で、北、西、南の三方を芥川で囲まれており、急な崖になっているので天然の要害として築城されました。 初代城主は能勢頼則で、能勢氏が代々居城しました。 その後、天文2年(1533年)には淡路に追われていた細川晴元が軍勢を引き連れて芥川山城に入城。 この当時、細川氏は大きな権力を持っており、芥川山城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が増設され、防御施設も拡充されました。 写真提供 |fsh| eta| vax| ofu| kgk| clz| ypx| skt| pwr| xqx| kwr| gtt| ova| sax| foh| tnc| puh| yks| dtl| qea| dvo| sph| lml| gev| mhq| rfr| blp| ulz| xyi| wel| jxe| mun| xez| yqa| vvg| tkv| omn| drm| kyq| bsx| coh| cdl| idd| gxp| oko| eqh| hkd| vge| mnb| yir|